このことについて、反論や疑問があるかもしれません。
「じゃあ、イエスを信じていない人は、実を結べないの?」
「イエスを信じてない人だって、愛情深い人はいるのでは?」
「聖書を読んでないけど、世の中のために良いことをする人もいるのでは?」
たしかに一理ある反論です。
が、もう一度、「実」を定義する御言葉に戻りましょう。
ガラテヤ5章22節には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実」...とあります。
イエスが結ばせたい実は、肉の実でも魂の実でもなく、霊の実です。
自分の肉の欲望を満たすための「愛」ではありません。
自分の魂で一生懸命考えて判断して努力する「愛」でもありません。
霊から来る愛とは、あなたがイエスと出会い、満たされた結果、あなたを通してあふれ出る神の愛です。
ぶどうの木から養分を受けた枝が、その養分で自然と結ぶ実です。
そこには、自己満足を求める態度や、罪悪感から逃げるための罪滅ぼしや、世間体に合わせた偽善や、見返りや利益を狙う策略もありません。
あなた自身が誇るものもありません。
肉や魂の領域で行う愛と、霊の領域で行う愛とは、似て非なるものです。
ときには外からは見分けがつかないときもあります。
しかし覚えていてください。
神の目から見たとき、私たちが霊で実を結べないなら意味がないのです。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15・5c)
イエスを離れると何もできない、と聖書は言っています。
「けど、いろいろできるよ」と思う人もいるかもしれません。
「私はイエスを信じる前からビジネスに成功していました」
「私はイエスと出会う前から車の運転免許は持っていました」
「私はイエスは信じていないけど、ギターとピアノが弾けます」
しかし、イエスの目から見ると、なんと! まだ何もできていないのと同じなのです!
一番肝心な、霊の実が結べていないからです!
どんなに多芸でも、霊の実を結べないなら、まだ真に値あることはしていません。
なぜなら、あなたはまだ、「永遠に残るもの」を何も残していないからです。
神に捧げる実とは永遠に残る実です。
つまり、肉の実や魂の実ではなく霊の実なのです。
あなたはイエスとつながらなければ、永遠に残るものは何も残せません。
なにしろ、まず自分の命すら残せないのですから!
ときどき、こんな意見も聞きます。
「私は子供の頃から世の中のために何か良いことをしたいと思い、取り組んできました。最近、初めて聖書を読みましたが、イエスの言っていることはまさに私が思っていたことと同じです。私が今まで行ってきたことや信じていたことは正しかったと確信しました」
素晴らしいコメントだと思います。
しかし、やや厳しく指摘させていただくと、こうも訳せるかもしれません。
「私は子供の頃から正しく、これまでも神無しでそれができました。聖書を読んだら、やっぱり私は正しかったとなおさら確信しました。だからこれからも神無しで続けることができるでしょう。それじゃ、さようなら」
一方、イエスはこう教えました。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5・3)
自分には何もよいものはない、自分では神の願う価値ある働きはできない、そのような謙遜な思いを持って、イエスの救いを求めるものこそ、永遠に続く天の御国を受け取るのです。