spacer
HomeTop Page  Homeなだめのかおり②
2011年4月 7日
 
究極のかおり

 旧約時代のいけにえは人間たちの罪を「覆う」だけで、「とりのぞく」ことはできなかったので、神はついに究極の「なだめのかおり」となるいけにえを用意しました。

 それは自分の子であるイエス・キリスト自身です。

 イエスは私たちが神と和解して救いを受けるため、十字架につきました。

 一切の罪のない、完全で究極のいけにえです。

 これは神への「香ばしいかおり」となりました。

 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
(エペソ5・2)

 キリストの命が十字架で捧げられたとき、神はついに天地創造以来の救いの計画を完了し、ご自分の力を休め、安息に至りました。

 十字架でイエスが言った「完了した」(ヨハネ19・30)は、父なる神の思いでもあるのです。

 旧約の律法では、選ばれた祭司たちが幕屋で捧げ物(いけにえ)を捧げましたが、キリストは自分自身を捧げた大祭司なのです。

 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。(ヘブル4・14)

 イエスは自分の命を捧げることで、父なる神に最高のなだめのかおりを届け、神は最高の安息を得ました。

 その結果、何が起きたのでしょうか?

 すでに幾度も繰り返し書いていますが、神に安息を与えるなら神は最高の栄光を現してくれます。

 イエス自身が究極の捧げ物となったので、父なる神も究極の安息の栄光を現しました。

 それが死者の復活です。

 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
(エペソ1・20-21)

 このとき神は「全能の力」を働かせたと書いてあります。

 さりげない力でも、控えめな力でもなく、神ならではの最高の全力の奇跡です。

 神は、死んだイエスを復活させたのです。

 これは旧約聖書にいくつか例がある死者の復活や、新約聖書のラザロの復活(ヨハネ11章)とはまったく別の種類です。

 彼らは復活した後に年老いて結局は死にましたが、しかし、イエスの復活は栄光に満ちた永遠の肉体での復活です。

 老いることも朽ちることもなく、天に属する霊的な体を持った復活です(Ⅰコリント15・42-49)。

 イエスは今もこの栄光の肉体を持って生きています。

 父なる神が行なう業は、偉大すぎてもはや人の理性では悟れません。

 けれども、分かることが一つだけあります。

 それはこの奇跡が、神の安息の現れだということです。
Copyright© 2011 Bungo Kubota All rights reserved.