父の段階まで成熟した人物として、聖書で登場する代表例は、使徒パウロでしょう。
あるときパウロは、分裂問題で内紛中のコリントの教会(Ⅰコリント1・12)に対して、手紙で指導しました。
パウロはこう言っています。
私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
(Ⅰコリント4・14-16)
パウロは「あなたたちの成長を助ける人が何人いようと、父の立場にあるのは私だ!」と強権発動(?)です。
父たち
子ども(児童)から小さい者(少年)へ、そして若い者(若手)へと成長したあなたですが、それでもまだ終わりではありません。
続いて進むべき成長の道は、「父たち」(Ⅰヨハネ2・13、14)と言うことばに象徴される存在となることです。
原語パタールはそのものずばり、父親の意味です。
つまり私たちは父、もしくは女性ならば母、というべき存在になるように願われています。
父(母)とは、霊的な子がいる者たちです。
私たちはすでに自分たちの中に新しい命を与えられ、養われ、強い者となりましたが、今度は私たちが新しく霊の命を与えて育てる番です。
本当に偉大な人物とは、自分が偉大な務めをするだけでなく、さらに偉大な人物を輩出できる人です。
若い者(若手)は、神の国の第一級の戦力です。
聖書では、若い者たちを勇士の矢にたとえています。
若い時の子らは
まさに勇士の手にある矢のようだ。
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。
彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。
(詩篇127・4-5)
勇士が敵の前で堂々と誇れるのは、その手に素晴らしい矢があり、強さを見せ付けることができるからです。
神の国の軍隊も、整えられた若手がいることで悪霊たちを震え上がらせることができます。
矢の威力が100%発揮されるためには、まずしっかり弓にかけて、充分に懐に引き込み、それから手放さなければなりません。
若い者たち
成長の3段階目は、「若い者たち」(Ⅰヨハネ2・13b、14c)です。
これは、原語(ギリシャ語)でネアネスコスという言葉です。青年、ユース、若いしもべ、などの若い世代全般の意味です。
ただし注意したいのは、聖書が語る「若者」とは「未熟な者」ではありません。
すでに一人前の人を指します。
おそらく適訳は「若者」よりも「若手」でしょう。
若手のプロ野球選手、若手の国会議員、若手の営業部員など、社会人として活躍しているけれども若い、という意味合いです。
神が父であることを、頭で知るのは簡単ですが、心で悟るのは一筋縄でいかないときがあります。
親から暴力を受けてきた子は、「父なる神」と言われると横暴なジャイアンのようなイメージかもしれません。
親が不在の家庭で育った子には、神が父ならなおさら遠い存在に思えるかもしれません。
サタンの仕掛ける罠の一つは、「父」のイメージを破壊させ、人々が神とリアルにつながるのを妨げることです。
それゆえサタンは家庭を破壊したがります。
しかしあなたがキリストよって命を与えられ、少しずつ神との関係を築いていくとき、あなたは徐々に本当の父を知っていきます。
小さい者たち
成長の第2段階に入りましょう。
「小さい者たち」(Ⅰヨハネ2・14a)です。
これは原語(ギリシャ語)では、パイディオンという単語です。
幼児、未成熟な者などの意味で、第1段階「子どもたち」(テクニオン)とほとんど同じ意味です。
(そのため一部の英語訳の聖書(NKJVなど)では、第1段階も第2段階も同じ「little children」と訳しています)
しかし、あえて言うならばパイディオンはもっと年上まで含む表現です。
日本語でもっとも適した表現は「少年」でしょう。
青少年保護条例などが適応される範疇の、中高生くらいまでのイメージです。
この段階の特長は何でしょうか?
ところで、十字架の福音を信じる(罪を赦される)とは、どういうことでしょうか?
福音を信じるとは、知性で納得することではなく、霊で受け入れることです。
そもそも、福音は知性では納得できないようにできています。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さをむなしくする。」
知者はどこにいるのですか。
学者はどこにいるのですか。
この世の議論家はどこにいるのですか。
神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
(Ⅰコリント1・18-21)
福音は、人が知性だけで理解しようとすれば、「愚か」に思えるように出来ています。
じつはそれが神の狙いであり、神の知恵です。
なぜでしょうか?
子どもたち
まず第1段階は、「子どもたち」(Ⅰヨハネ2・12)です。
原語(ギリシャ語)では「テクニオン」という単語です。
これは幼児、赤ん坊、可愛らしい子ども、などの意味合いがあります。
厳密な年齢の定義はありませんが、日本語では「児童」という言葉がもっともぴったりくるでしょう。
児童館や児童相談所に登場するような、小学生くらいまでの子どもたちのイメージです。
児童は、まだ生まれたばかりで未熟です。
自分で自分を世話することはできず、親から100%世話してもらわないといけません。
聖書の中でもっとも人気の高い書は、おそらく「ヨハネの福音書」でしょう。
全部で21章に及ぶ長い物語ですが、しかしこの物語が書かれた理由は、たった一言で言い表すことができます。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20・31)
ヨハネが福音書を書いた第一の目的は、まだイエス・キリストについて知らない人たちに初めてイエスを紹介し、人々が信じて「命を得るため」でした。
もちろんすでに信じた人々なら、さらに深い真理を探るためにもこの書は役に立ちます。
ところが、じつは同じヨハネは、福音書以外にも教会宛の手紙などを聖書の中に書き残しています。
なぜヨハネは福音書以外にも手紙を書いたのでしょうか?
その目的は、次の一言に集約されています。