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以下はカテゴリーもしくは月別「2010年12月」で絞り込んだリストです。
2010年12月30日
聖霊と過ごす あなたの油注ぎがよりよく発揮されることを願うなら、聖霊ご自身と共に過ごす時間を持ってください。
これは、聖霊ご自身の人格(神格)に触れる時間です。
私たちは油注ぎを求めるときに、「聖霊の力」を求めがちですが、それ以上に重要なのは、「聖霊ご自身」との出会いを求めることです。
聖霊はただのエネルギーやパワーではなく、知性(Ⅰコリント2・11)も意志(Ⅰコリント12・11)も感情(エペソ4・30)も持っている方です。
そして、聖霊はパワフルでありながら、とても穏やかで繊細でデリケートな方です。
2010年12月29日
◆預言者の油注ぎ~カバーリング~ ダビデの戴冠から約250年後、王国が南北に分裂していた時代、北イスラエル国の預言者エリヤに、神は後継者としてエリシャに油を注ぐよう命じました。
また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなた(エリヤ)に代わる預言者とせよ。(Ⅰ列王記19・16)
続いて聖書には、エリヤが実際にエリシャを見つけたときの出来事が記されています。
エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、(Ⅰ列王記19・19)
エリヤは自分の外套(コート)をエリシャに掛けました。
ここで使われている外套という言葉は「力・偉大さ」という単語を語源とする言葉です。
エリヤにとって外套は神から与えられた権威の象徴でした。
2010年12月28日
◆王の油注ぎ~訓練~
ダビデが王として選ばれて油注がれたのは、彼がまだ若い頃、羊飼いの少年に過ぎなかったときです。
預言者サムエルが神の命令を受けて、ダビデに油を注ぎました。 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(ダビデ)に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。(Ⅰサムエル16・13)
この直後、ダビデはゴリヤテとの戦いで勝利を収め、華々しいデビューを飾ります。
しかし彼がすぐに王座についたわけではありません。
むしろ、彼は上司であるサウル王に妬まれて、命を狙われ、逃亡生活に追い込まれます。
神はなぜダビデにそのような過酷な運命を用意したのでしょうか?
2010年12月27日
旧約の3つの油注ぎ
旧約時代に神の務めとして油注ぎを受けたのは、祭司、王、預言者の3役でした。
イスラエルにおいて、この3役はそれぞれ独立し、霊的三権分立とも言える関係でした。
ウリヤという王は、王なのに祭司の仕事に手を出したため、主に打たれて病気になり、死ぬまで隔離された家に住みました(Ⅱ歴代誌26・16-23)。
3役が正しく機能するとき、イスラエルは安定しました。
イスラエル全盛期、ソロモンが王座に着く際には、王ダビデ、預言者ナタン、祭司ツァドクの3役が一致してソロモンをサポートしました(Ⅰ列王記1章)。
現代の私たちが受ける油注ぎは、祭司・王・預言者のような別々で限定的な油注ぎではありませんが、この3役が油を注がれる場面から学ぶことは多くあります。
2010年12月23日
◆油注ぎは取り消されないが、霊的権限は失う危険もある 聖書によると、イスラエルの初代国王サウルは神に従順でなかったので、神はサウルを王位から退けました(Ⅰサムエル16・1)。
主の霊もサウルを離れました(Ⅰサムエル16・14)。
サウルはその後もしばらくは(人から見れば)王の地位に残りましたが、どんどん歪んだ判断や考えをするようになり、嫉妬して若きダビデの命を狙うようになります。
一方、ダビデは逃亡生活を余儀なくされますが、途中で、逆にサウルの命を奪う機会が2回もありました(Ⅰサムエル24、26章)。
2010年12月22日
タイトル 『ワーシップ~礼拝の真髄~』
著者 ジャック・ヘイフォード
訳者 久保田文吾
2010年12月21日
◆聖霊の「バプテスマ」は一度きり、「満たし」は随時 聖霊のバプテスマ=新約時代の「油注ぎ」は、一度で完全な体験です。
旧約聖書で、神の働きを行うために油注ぎを受ける人は、祭司と、王と、預言者の3種類の人々でした。
彼らが頭に油を注がれたのは、神に選ばれて任命されるとき、一度だけです。
唯一の例外はダビデで、彼はまず若い頃に密かに預言的に油を注がれ(Ⅰサムエル16・13)、後にユダ族の王(Ⅱサムエル2・4)、後にイスラエル全体の王として(Ⅱサムエル5・3)、計3回油を注がれました。
しかし神からの任命は1回目の油注ぎだけで、残り2回は人々からの段階的な追認・公認の意味です(もちろんそこにも神の御心・霊的意味がありますが、この点は後ほど説明します)。
「油注ぎをやり直した」わけではありません。 現代の私たちも、油注ぎは、一度で完全に受けています。 ただし最初の「聖霊のバプテスマ」と、その後の「聖霊の満たし」は、別です。
2010年12月17日
聖霊のバプテスマ
旧約聖書の時代、神の特別な働きに選ばれて任命された人々は、文字通り、頭の上からオリーブ油を注がれてから、神の人として用いられました。
旧約時代の油注ぎは、新約時代の私たちが受ける聖霊の油注ぎの預言的な象徴です。
油は、人間にとって必需品です。
乾燥した肌に染み込み、豊かさ、うるおいを与えます。
現代の私たちも、聖霊の油は必需品です。
まず自分が油を注がれ、満たされ、それから神の与えた任務に入り、人々の心にも油を届けていくのです。
新約時代の私たちの油注ぎは、もう一つの表現で、聖霊のバプテスマ(洗礼)です。
2010年12月16日
くびきを砕く力 ある青年が、忠実に教会で仕えていました。
謙遜で、神を恐れ、リーダーによく従う人でした。
ある日、彼は礼拝で初めて賛美をリードすることになりました。
彼が歌える曲はごくわずかで、小さな子どもたちでも歌えるような、単調なものでした。
特に美声というわけでもありません。
しかし彼が歌い出すと、その場が主の臨在に満ちて、人々は聖霊に心を触れられて、涙を流し始めたのです。
何が起きたのでしょうか?
油注ぎです。
2010年12月14日
イエスがキリストになった瞬間をご存知ですか?
この質問の意味がよく分からない人もいるかもしれません。
「イエス・キリストは最初からイエス・キリストでしょう」と言う人もいるかもしれません。
しばしば誤解されますが、「キリスト」はイエスの苗字ではありません。
「キリスト」は、イエスが何者であるかを示す称号のようなものです。
キリストという単語は救い主を現す言葉として良く紹介されます。
旧約聖書の原語(ヘブル語)のメシアも同じ意味で紹介されます。 しかし、キリスト(メシア)には、もっと深い、本来の意味があります。
それは、「油注がれた者」という意味です。
では、いったい、「油注がれた者」とは何でしょう?
2010年12月 9日
主の臨在が深く激しく訪れ、人々の信仰を刷新したり、一度に多くの人々が救いを受けたりする現象を、しばしばリバイバルと呼びます。
現在、アラバマ州モービルの教会にも主の臨在が特別に押し寄せ、リバイバルが起こっているそうです。
ここでのリバイバルの特長は、怪我や病気のいやしの奇跡が数多く起きていること。
その中でも特に話題になっているエピソードが、自動車事故で23年間も車椅子で生活している女性(他の教会のリーダーの妻のようです)が、祈りによっていやされ、歩けるようになったことです。
そのときの映像がこちらです。最初に祈られ、立ち上がってから、両腕を支えられつつ、ゆっくり歩き続けます。 23年ぶりのせいか、まだ歩みが困難そうです。しかし、家に帰るころの映像では、だいぶ良くなっています。
2010年12月 3日
神の国は、王座から始まる
このシリーズの初めに、賛美と礼拝を通して主の臨在に触れる、というコンセプトを説明しました。
最後に、再びこの点に戻りましょう。
臨在とは何でしょうか?
じつは臨在という言葉は、日本語の聖書(新改訳)には出てきません。
臨在を意味する原語に、日本語では「(神)自身」「(神の)御顔」「(神の)御前」などの訳語をあてています。
つまり、臨在に触れるとは、「神自身の前に進み出て、その顔を仰ぎ見る」ことなのです。
神と直接出会い、親しく交わり、その偉大さ、尊厳、栄光、力を体験している状態です。
これが、御座(王座)での礼拝です。
2010年12月 1日
神へのミニストリー
私たちが礼拝しなくても、神は充分神です。
ですが、聖書によれば、私たちの礼拝は、神に影響を与えます。
箱舟で有名なノアは大洪水の後、家畜や鳥を祭壇で全焼のいけにえとして捧げました。
するとその煙は神にとって「なだめのかおり」となりました(創世記8・21)。 モーセの幕屋でも、動物をいけにえとして捧げて焼いたとき、その煙は神への「なだめのかおり」となりました(レビ1・9、民数記15・3)。
私たちが正しいいけにえで礼拝を捧げるなら、それは甘いなだめの香りとなって天の御座にのぼり、神にいこいを与えます。
礼拝は、神へのアロマテラピーです!
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