聖書に登場する最初の結婚の物語を知っていますか?
エデンの園でのアダムとエバの結婚です。
この二人は世界で最初に出会い、喜び、一組の夫婦となった二人です。
なにしろ人類最初の二人ですから、この夫妻なしでは今の私たちはありません。
アダムとエバを語る際には、創世記3章での彼らの失敗が強調されがちですが、その直前、創世記2章での彼らは、たしかに神の摂理に従って結婚した、最高の夫婦でした。
まだ人類に罪が入る前で、神が計画したとおりにすべてが麗しくあったので、彼らの結婚は、完璧でした。
ですから、アダムとエバの結婚の記述をよく読むと、そこには、神がデザインした正しい夫婦関係の秩序と原則が描かれています。
これを知ると、夫と妻のそれぞれの役割分担や、互いにどのように接すれば良いのか、などの基本を得ることができます。
しかし、それだけでは、興味を持たない読者もいるかもしれません。
では、もう一つの結婚の物語はどうでしょうか?
エピローグ
ダビデの華々しいデビュー戦が終わりました。
イスラエルに、勝利がもたらされました。
この戦いの結果、ダビデの人生は一変します。
サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。(Ⅰサムエル18・2-5)
ダビデは、サウル王の目にとまり、王の宮の住人となり、大親友ヨナタン(サウル王の息子)とも出会い、そして戦士たちの隊長となって国民的ヒーローになりました。
しかし、じつはこれはダビデの長い物語の幕開けに過ぎません。ここからダビデには、長い試練が待っています。
全体の勝利につなげる
ダビデの勝利は、ペリシテ軍たちには恐れを、イスラエル軍には勇気を与えました。
イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。(Ⅰサムエル17・52-53)
ダビデの勝利は、ダビデだけにとどまらず、国全体の勝利へとつながりました。
ここで聖書は大切なことを教えています。
自分の勝利を、チーム全体の勝利につなげることの重要さです。
勝利の後、あなたの心は試されます。
勝利は、あなたの心を高ぶらせ、陶酔させ、おごらせます。
すると判断力が鈍り、慎重さに欠け、敵の巧妙な罠にはまりやすくなります。
聖書の中で、多くの人物が勝利を収めた後に失敗しています。
世から奪回する
ダビデは石投げでゴリヤテを打ち倒し、勝利を収めました。
石投げで巨人を倒した少年ダビデの物語、として語られるのは、普段はここまでです。
けれども、ダビデが次に何をしたかは、あまり知られていません。
ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。(Ⅰサムエル17・51)
石投げという賜物に忠実に徹したダビデですが、じつはそれだけでなく、最後はゴリヤテの剣を奪って首をはねることで決着をつけました。
剣自体は善でも悪でもありません。
電力や原子力と同じで、使い方しだいで善にも悪にもなります。
ダビデは、「敵の武器は汚れている」などとは言わず、むしろ奪い取って有意義に使いました。
この剣は、世から奪い返して有効活用するべき素材(技術、芸術、文化)などの象徴です。
神の義を意識する
ペリシテ軍の巨人ゴリヤテは、石投げを手に戦いに挑む少年ダビデを軽く見て、ののしりました。
しかしダビデは、信仰によって、聖書の中でも特に有名な勝利宣言をゴリヤテに返します。
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(Ⅰサムエル17・45)
ダビデの、瞬発系の信仰のスイッチが入りました。
ダビデは「この戦いは主の戦いだ」と言っています。
この一言は、ダビデ対ゴリヤテを象徴する一言です。
彼が注目していたのは、自分でも敵でもなく、イスラエルの神の栄光です。
ダビデは、決して現実(ゴリヤテ)が見えてなかったわけではありません。
それよりも高い次元にある神の臨在を見ていたのです。
賜物に徹する
ダビデが自分のこれまでの経験を説明し、ゴリヤテとの戦いを申し出ると、サウル王は承諾しました。
そしてダビデのために自らのよろいや剣を貸します。
王様の武具を借りるとは、なんと光栄なことでしょう。
ところが、です。
サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。(Ⅰサムエル17・38-40)
ダビデは、王様のよろいや青銅のかぶと、そして剣すら拒否して、川にある石を武器として選びました。
サウルの武具を拒否した理由は「慣れていなから」です。
充分な準備
ダビデの勝利の要因の一番目は、彼が充分な準備を積んでいたことです。
ダビデは戦いの前、サウル王に次のように言いました。
ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」(Ⅰサムエル17・34-36)
ダビデは、日ごろ羊の世話をする中で、獅子や熊を打ち倒す経験を積んでいました。
彼は訓練に裏づけられた勝機を感じていたはずです。
人間の筋肉には瞬発力に優れた速筋(白い筋肉)と、持久力に優れた遅筋(赤い筋肉)があります。
同じように、信仰も瞬発系と持久系があります。
聖書によれば、人は誰でもチャンスに出会うけれども、それがいつかは誰も知りません(伝道者9・11-12)。
もし自分に与えられたチャンスを確実に活かすことができたら、それはすばらしいことです。
今からおよそ3000年前、一人の少年が、その後の彼の人生を一変させる大勝負にチャレンジし、見事に勝利を収めました。
その勝利は彼だけでなく、国家のその後の運命をも変えました。
少年の名前はダビデ。
後のイスラエル王国の王として、その名を残す人物です。
当時、イスラエル王国はまだ揺籃期にあり、国家としては未成熟で不安定な状態でした。
当時、民たちは王様を欲しがったので、神はサウルという人物を初のイスラエル国王に選定しましたが、サウルは神に忠実に従わなかったので、神は新たに王となるべき人物を選びました。
それがダビデです。
国家が新しいかたちへと移り行く激動の時代に、神は彼をリーダーとして選んだのです。
主を恐れる霊
聖霊の7つの聖なる名の、最後の一つは、「主を恐れる霊」です。
もしかしたらあなたは、主を恐れる、ということに違和感があるかもしれません。
愛に満ちた優しい神をなぜ恐れるのか、と思うかもしれません。
たしかに神は愛です。しかし同時に、神は聖です。
主は、私たちの罪を取り扱い、聖めます。
主を恐れる霊とは「私たちを清め、聖なる神の御前に差し出す聖霊の性質」を現しています。
聖霊は、私たちの失敗・罪を示します。
それはあなたを辱めるためではなく、あなたを聖めて、さらに神と親しくするためです。
主を恐れて悪から離れることこそ、あなたの人生を守る知恵です(箴言9・10)。
主を知る知識の霊
聖霊の6つめの名前は、「主を知る知識の霊」です。
これは「神を正しく知る知識を与えてくれる聖霊の性質」です。
私たちが持っている知識や体験や思考は、神を正しく理解していないときがあります。
しかし聖霊が私たちに臨むと、神を知れるようにそれらを調整してくれます。
たとえば、幼い頃に父親からひどい虐待を受けた少年は、「父なる神」を「どうせひどい神だ」と誤解します。
歪んだ思いのままだと、神に頼りきれず、甘えることができず、せっかく神が備えた祝福を逃してしまいます。
必要なのは、主を知る知識である聖霊の働きです。
聖霊は、あなたから間違った知識を取り除き、正しい知識に置き換え、神がどんな存在であるかを教えてくれます。
こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。(コロサイ1・9)
能力の霊
4番目の「はかりごとの霊」とセットになっている名は、5番目の「能力の霊」です。
これは、「神が与えた目的を達成させる聖霊の性質」といえます。
神は私たちの人生に目的と計画を与えてくれますが、それらが達成されるためには、能力の霊である聖霊の力が必要です。
聖霊の力とは、いったいどんな力でしょうか?
奇跡、癒し、解放など、超自然的な働きすべてが聖霊の力です。
聖書に登場する神の業は、すべて聖霊が関わっているから起こるのです。
しかし、それだけではありません。
私たちが福音を伝えていくときに心の内側に与えられる大胆さ・勇気なども、聖霊の力です。
『使徒の働き』で、弟子たちが大胆な宣教ができるようにと祈ると、神が応えてくれる場面があります。
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)
能力の霊である聖霊は、あなたに大胆さや勇気などの内なる力も与えます。
はかりごとの霊
聖霊の4番目の名は、「はかりごとの霊」です。
日本語だと少し分かりづらいのですが、英語の聖書ではthe Spirit of counsel(NKJ)、つまり「カウンセリングの霊」です。
これは、「人の心の中にあるものを探り出して光を当ててくれる聖霊の性質」を象徴する名です。
聖霊は私たちのカウンセラーです。
聖霊は、御言葉と共に働いて、私たちの心の奥にあるものを気づかせてくれます(ローマ8・26、ヘブル4・12)。
私たちは自分の中に何があるかを自分では分かりません。
しかし聖霊が私たちに臨むとき、私たちは心を探られ、今まで気づかなかった心の闇や、肉の思い、痛み、傷などを発見し、それを主の前に差し出て、取り扱っていただくことができるようになります。
これは聖霊の働きです。
聖霊は、神の定めた正しいタイミングで、必要な部分に光を当て、私たちを少しずつ整えてくれます。