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以下はカテゴリーもしくは月別「2010年8月」で絞り込んだリストです。
2010年8月31日
悟りの霊
イザヤ書11章2節に登場する聖霊の7つの名は、1番目の「主の霊」以外は、すべて2つの名がセットで登場します。
「知恵と悟りの霊」という名は「知恵の霊」と「悟りの霊」という二つの性質です。
木にたとえると、 「主の霊」が幹で、対になって左右に伸びる枝が、それぞれ3セットずつで、全部で7つの名になります。
これはちょうど、旧約聖書の幕屋に置かれた金の燭台(メノラー)の形にも現れています(出エジプト25・31-32)。
では、2番目の名「知恵の霊」とセットである3番目の名「悟りの霊」を見てみましょう。
悟りの霊とは、「物事の全体図を教えてくれる聖霊の性質」、言い換えるならば、神の視点を教えてくれる聖霊の働きです。 悟りとは、人には測ることのできない神の計画を知ることです。
あなたの人生に起こるさまざまな出来事に、どんな意味があるかを知るのは、悟りの霊である聖霊の助けが必要です。
2010年8月30日
知恵の霊
聖霊の7つの名(性質)は、7つの聖霊が別々にいるというわけではなく、唯一の聖霊の性質を7つの側面から紹介しているものです。
聖霊の最初の、軸となる、性質は、聖霊が「主の霊」であるということでした。
2番目に私たちが知るのは、聖霊が「知恵の霊」だということです。
知恵の霊とは、「深い所に届き、神の解決方法をもたらす性質」を表しています。
知恵とは、問題の根を突き止める力です。
これが無いと、問題が起きても正しい解決に届かず、周囲をぐるぐると回るだけの議論や試みが続いて、疲れ果てていきます。
聖霊からの知恵を受け取っていないからです。
私たちは、何か問題を抱えると、自分の持っている方法や力やリソース、そしてパラダイムで、解決を試みます。
そして自己努力の結果、神の計画から自分をどんどん離れさせてしまうのです。
しかし、聖霊(知恵の霊)に答えを求めるなら、あなたは神の備えた解決方法を啓示として受け取ることができます。
2010年8月28日
主の霊
聖霊の7つの名前の1番目を見ていきましょう。
まず登場するのは「主の霊」(イザヤ11・2)という表現です。
これは、聖霊の性質を現す代表的な表現で、他の6つの名前を知る以前にまず知るべき、聖霊の性質の軸です。
「主の霊」もしくは「神の霊」とは、「神が語った御言葉を実行する聖霊の性質」を表しています。
聖霊が最初に登場する場面は、創世記1章2節です。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。(創世記1・2)
天地創造の際に、地表(水の上)を覆っていたのは、現場監督である聖霊(神の霊)です。
まず父なる神が光を創造することを決めました。
そして子なる神が「光があれ」という言葉となりました。
そして、神の霊である聖霊が、その言葉通りに光を創造しました。
2010年8月27日
永遠の真理の書であり、神からのラブレターである聖書によれば、私たちが信じる神は、父、子、聖霊という、三位一体の神です。
父、子、聖霊という概念は聖書全体を通して現れ、イエス自身も言及し(マタイ28・19、ヨハネ16・15他)、パウロも書簡の中で用いています(Ⅱコリント13・13)。
三位一体とは、神が父・子・聖霊という3つの個別の人格(神格)を持ちつつも、同時に唯一の神として存在している、ということです。
これは人間の頭では考え切れない領域ですが、真理です。
3つの神がバラバラに働いているわけでもありませんし、逆にひとつの神が3つの姿にコロコロと変身するわけでもありません。
完全な3つであり、完全に一つなのです。
父・子・聖霊を完全に切り離してバラバラに考えることはできませんが、聖書を読むと、それぞれの役割分担を探ることができます。
2010年8月24日
イエスのために迫害される者
幸せの階段の、最後を飾る9段目です。
これは数え方によっては、8段目の後半部分「8の2」にあたります。
再出発となる8段目は、2つ分の幸せ、2倍の祝福です。
イエスの言葉を見ましょう。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5・11-12)
ここでもまた迫害される者が幸せです。
「8の1」では、あなたは義の態度や行動のゆえに迫害されました。
しかしここでの迫害は、あなたが、ある人物の名前を堂々と宣言するがゆえに受ける迫害です。
誰の名でしょうか?
2010年8月23日
義のために迫害されている者
幸せの階段は、7で完成を迎える、とすでに説明しました。
しかし、「完成」は「終焉」ではありません。
まだ8段目と9段目が続いています。
この8段目と9段目はよく似てて、二つでセットです。 ですから、「8の1」、「8の2」、という数え方もできます。
まず、「8の1」を見ましょう。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・10)
世の中では普通、攻撃されず、苦しまず、安全に過ごせれば幸せだと考えます。
しかしイエスはまったく逆のことを言っています。
迫害されることが幸せなのです。
2010年8月20日
平和をつくる者
幸せの階段の7段目に上がりましょう。
聖書では、7は完成を表す聖なる数字です。
この階段の7段目は、幸せのひとつの完成形です。
そこには、どんな幸せがあるのでしょうか?
イエスは言っています。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5・9)
幸せなのは、平和をつくる者です。
しかし、ここでもまた、世の考える平和と、神の国の教える平和とは、違います。
平和とは、分裂や争いがあるところに和解をもたらすことです。
しかし、いくら平和を作っても、普通は「神の子」とまでは呼ばれません。
国際紛争の調停に携わる政治家や、人権問題をアピールする平和運動家は、神の子とは思われません。
けれども、イエスが語った幸せの階段をひとつひとつ丁寧に上り、神から受け取り、人々に与えていくならば、世は、あなたを「神の子」と認めます。
なぜなら、あなたの生み出す平和は、世の方法ではなく、神の方法だからです。
2010年8月19日
心のきよい者
幸せの階段の、第6段目を上りましょう。
人は、美しさを求めます。
ファッションから整形手術まで、美しさを求める衝動は、際限なく続きます。
たしかに美しさは価値があります。
しかし、神の国の美の基準は、この世の基準とは違います。
イエスは言いました。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。(マタイ5・8)
世の中では外見の美しさが勝利の秘訣だと考えます。
しかし神の国は内面の美しさを勝利の秘訣と教えます。
心のきよさです。
2010年8月18日
あわれみ深い者
幸せのステップの4段目は、長い階段の途中にある踊り場のようなものでした。
5段目からは、階段の向きがぐるりと変わって後半戦です。
あなたは、引き続き階段を上っていきますが、ここからは、「受ける幸せ」ではなく、「与える幸せ」です。
何かを受けとることは、もちろん幸せです。しかし、もっと次元の高い幸せがあります。 それが、与える幸せです。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5・7)
あわれみとは、受けるべき罰を受けずに済まされる愛です。
犯罪者が刑を軽減されるのは裁判官のあわれみです。
子が財産を放蕩して帰宅しても、暖かく迎え入れてもらえるのは父のあわれみです。
あわれみは、神の人柄(神柄)の一部です。
2010年8月17日
義に飢え渇く者
引き続き、幸せへの階段を上っていきましょう。
4番目の幸せのトピックは、満足感です。
飢えることも渇くこともなく、満足した状態でありたいと、誰でも願います。
しかし、イエスは不思議なことを言いました。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(マタイ5・6)
幸せなのは、飢え渇く者です。
まだ充分ではない、と感じて求め続ける人です。
人は、収入、家の広さ、夫婦関係、地位、外見、体形など、いろいろ不満を感じています。
しかし、イエスが言っているのは、それらへの飢え渇きではありません。
義への飢え渇きです。
神の聖なる性質、神自身への飢え渇きです。
2010年8月16日
柔和な者
幸せの階段の三段目を見ていきましょう。
人はしばしば思います。何の制限もなく、自由気ままに生きることができたら、どんなに幸せだろう、と。
しかし、真理の御言葉は逆のことを教えています。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(マタイ5・5)
柔和な者とは、「力を制御する人」です。
力があっても、それを思う存分発揮することを控える人、思い通りにならない環境でも、不平不満を言わずに静かでいられる人です。
イエスは、自由に力を発揮できる人ではなく、制限されて不自由な人が幸せだと言っています。
なぜでしょうか?
じつは、そんな柔和な人こそ、神から真の自由が与えられるのです。
2010年8月13日
悲しむ者
幸せの階段の、第2段を昇りましょう。
私たちは普通、何かを喜んでいる状態を「幸せだ」と考えます。
しかし御言葉は、またもや反対のことを言っています。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5・4)
悲しめる者こそ、じつは幸せだと、イエスは言うのです。
人は普通、悲しみを恐れます。
悲しみが近づくと、それを避けようとします。
悲しみの先には、絶望が待ち受けていると思うからです。
たしかに、世の与える悲しみは、喪失と絶望です。
2010年8月12日
心の貧しい者
イエスが語る幸せの階段の第一段は、お金持ちになることでも、大きな家に住むことでも、きれいな服を着ることでもありませんでした。
物やお金に関わることではなく、心に関わることでした。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・3)
世は幸せを、「物やお金の豊かさ」の中に見出そうとします。しかしイエスは「心の貧しさ」の中に見出しました。
まったく正反対です。
なぜでしょう?
なぜなら、心の貧しい者だけが、天の御国の豊かさを受け取ることができるからです。
自分が貧しい者だと認めて、へりくだり、神の恵みを求めるときに御国は訪れるのです。
そのとき、あなたは世の豊かさではなく、天の豊かさを体験します。
2010年8月11日
人類史上、最高のメッセージとは、どんなものだと思いますか?
古代ローマの賢者たちの弁明でしょうか?
近代アメリカの大統領の就任演説でしょうか?
現代の大企業の社長が語る経営論でしょうか?
違います。
その後の世界の歴史を永久に変えてしまった最高の演説、それは、イエスがガリラヤ湖畔の山の上で群集たちに語った、通称「山の上の教え」(山上の垂訓)と呼ばれるメッセージです。
イエスは神の子でしたが、人となってイスラエル北部のガリラヤ地方の小さな村ナザレで育ちました。
この世の権力者でも有名人でもありませんでした。
しかし、神の国を伝える彼のもとには多くの人々が寄ってきました。
あるときイエスは、集まってきた群集と、そして弟子たちに向かって、山の上でとても大切なことを語り始めました。
2010年8月10日
まとめ
聖書の中で、もっともワクワクしてドラマチックなストーリーは、「使徒の働き」でしょう。
もちろん、イエス自身が直接ミニストリーをする4つの福音書の物語も素晴らしいのですが、私たちと同じ、弱くて足らないところも多い弟子たちが、聖霊の力に満たされて神の言葉を広めていく姿には、別の感動があります。
しかし、彼らの時代、教会に最初から5つのミニストリーがあったわけではありません。
彼らの教会は、最初から「完全」だったわけではありません。
むしろ、今の時代の教会と変わりなく、常に問題がありました。
そして、教会は、問題があるごとに成長し、前進していったのです。
・急に3000人も救われたので、予定外に教会が始まりました(使徒2章)。
・食料の配給で問題が起きたので、執事が立てられました(使徒6章)。
・迫害で散らされたので、伝道者が現れました(使徒8章)。
・外国で自然に教会が始まったので、バルナバの使徒的な役割が始まりました(使徒11章)。
・間違った教えが出てきたので会議を開いたら、異邦人伝道が正式認可されました(使徒15章)。
・各地で誕生した教会をフォローアップするため使徒たちが手紙を書いたので、教理が明確になりました。
2010年8月 9日
健全な理解のために
5つのミニストリーの教えはとてもインパクトがあり、強烈な印象を残します。
そのため、この教えを神秘化・偶像化してしまうケースや、逆に排斥・中傷してしまうケースがあります。 この教えは、重視しすぎても軽視しすぎても罠にはまります。五役者シンドローム(症候群)にも五役者アレルギーにもかからないように注意しましょう。
そのためには、以下のポイントを認識しておくと良いでしょう。
肩書きではなく役割
ある教会は「使徒」「預言者」などの名称を大事にしますが、ある教会はただの役割分担として漠然と「あの人は教師タイプだね」「彼は預言者的なメッセージをする」と表現します。
肩書きがあっても良いのですが、大切なのはその際に実体として機能しているかどうかです。
2010年8月 6日
偽使徒
一見華やかな任務に思われる5つのミニストリーですが、本質は素朴で地味なものです。
とくに使徒はそうです。
パウロも会ってみると迫力の無い人でした(Ⅱコリント10・10)。
現代の使徒的人物たちも多くは、一見すると肩の力の抜けたごく普通の人たちで、柔和で、けれども彼らを通してキリストの命が溢れ流れます。
ところが、偽使徒は聖書の時代からいました(Ⅱコリント11・12-14)。
今もいます。
私の祈りを受けると油注ぎが増す、賜物が与えられる、癒される、私のグループの下に入れば祝福される、などなど、さも偉大な人物風に説きますが、偽者です。
権威や肩書きに弱い日本人は騙されやすいので注意しましょう。
そもそも使徒と自称しないと使徒の仕事ができないような人は使徒ではありません。
使徒という呼称にまったく興味も知識もない人のほうが、案外、健全に使徒的なミニストリーをしていることが多いものです。
2010年8月 5日
5つ以外のミニストリー
ところで、教会を建て上げるためには、5つのミニストリー以外の人々も、もちろん必要です。
ここで、5つのミニストリー以外で、神の教会を支えるための働きを紹介します
長老
長老は、地域教会の中で、霊的な事柄に責任を持つリーダーたちです(使徒14・23)。
広い意味では五役者たちも長老の一種ですが、通常は、五役者ではないけど地域教会の霊的な指導をする人(牧師の補佐)を指します。
牧師を助け、信仰の模範となる人で、御言葉を教えたり、礼拝を導いたり、メンバーたちの霊的ケアに気を配ります。
長老は、(聖書的に厳密に言えば)使徒が選んで正式に任命します。
よく指導の任に当たっている長老、特に、御言葉と教えのために労苦している長老は、二重の尊敬(報酬)に値します(Ⅰテモテ5・17)。
「監督」という言葉もあります。
監督の原語「エピスコパス」(=overseer全体を見る、向こうまで見る者)は、今日の言葉でいえば「リーダー」です。通常は長老とほぼ同義語です(使徒20・28、ピリピ1・1)。
2010年8月 3日
5本の指
5つのミニストリーは、陶器師が粘土に触れるように、主の手の先の5本の指となって人々に触れ、神のデザイン通りにかたどっていく役割です。
じつは、人間の5本の指のそれぞれの特徴は、ちょうど五つのミニストリーの特徴にそっくりです。
そして、5本の指のチームワークは、ちょうど五役者のチームワークと同じです。 これは神が、私たちに五つのミニストリーを理解させるために与えてくれた知恵と言えます。
親指(使徒)
親指は、手全体で見ると、一番根元(手首)側に位置しています。
これは、土台の役割をする使徒の特性です。
親指は、手のほとんどの機能で重要な支点となり、他の4本すべての指に触れることができます。
また、拳を握って力を込めるとき、他の4本の指を抱える(覆う)ような働きをすることで、握力を生み出します。
同じように使徒は教会の軸を作り、他の五役者たちとのチームワークで効果を発揮します。
2010年8月 2日
使徒・預言者・伝道者・牧師・教師
使徒
「遣わされた者」という意味です。
主によって特定の教会から派遣されて、他の五役者(特に預言者)たちとチームを組みながら、いろいろな文化や環境の中で教会を生み出し、健全に成長させ、自立させる人です。
主イエスから霊的な設計図を受け取り、全体像を把握している「建築家」で、教会の土台となる真理を据えます(Ⅰコリント3・6、10)。
御言葉の奥義を教え、健全な秩序と教理を保ち、教会が神の恵みを受け取れるように整えます。
教会の自立後は、主が選んだリーダーたちを任命して、権限を委譲します。
聖書では12使徒のほか、パウロ、バルナバ、アンデロニコとユニアス(ローマ16・7)なども使徒です。
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