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以下はカテゴリーもしくは月別「2010年6月」で絞り込んだリストです。
2010年6月24日
まとめ
救いは、霊(義認)、魂(聖化)、体(栄化)という三つのステップにわたるものです。あなたがすでにイエスを信じているなら、次のことが言えます。
あなたの霊は、すでに、救われました(義認)。
あなたの魂は、今、救われている最中です(聖化)。
あなたの体は、将来、救われます(栄化)。
この3重の真理は、聖書の中の数々の御言葉に示されています。
たとえば、弟子たちに向けた言葉で、過去形で書かれた救いは、通常は霊に関するものです。
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3・5)
一方、現在形の救いは、魂に関するものです。
そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。(ピリピ2・12)
(ただし、 霊が救われた時点で魂も神のものとなっているので、「魂も救いを得た」と表現するときもあります。Ⅰペテロ1・9参照)。
2010年6月23日
体の救い ~将来、実現する救い~
イエスを信じたあなたの霊の救いは、一瞬で完成しました。
魂の救いは、現在形で完成途上にあります。
では、体の救いはいつでしょうか?
それは、キリストが再び地上に戻ってくるときです。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(Ⅰコリント15・51-52)
キリストが再び戻ってくるとき、私たちの肉体は、もはや老いることも死ぬこともない完璧な体になります。神がデザインしたとおりの、神の栄光に満ちた体です。
このとき、すでに死んでいた信仰者たちは復活して新しい体を得ます。まだ生きて地上にいる信仰者たちは、そのまま一瞬で新しい体に変えられます(Ⅰテサロニケ4・13-18)。
これが私たちが肉体の領域で待ち望んでいる救いです。
2010年6月22日
魂の救い ~日々、達成していく救い~
霊の救いは、一瞬で完成しました。しかし、魂の救いは、始まったばかりです。
あなたの魂は、過去の罪によって汚れた荒地となっています。イエスを信じた後も、まだその汚れは残っています。
魂は、今も不完全で、未熟です(Ⅰヨハネ1・8-9)。あなたの魂は、キリスト・イエスの命に満ちた霊、すなわち荒地に登場した最高の管理人によって、取り扱われ、聖められ、成長していく必要があるのです。
管理人であるキリストは、ただ土地(魂)を買い取っただけではなく、岩や石をどけて、土を耕し、種をまき、水をやり、時間をかけて美しい庭園へと仕上げていきます。
けれども、そのためにはあなたの協力が必要です。
キリストは、「この『嫉妬心』という岩をどけましょう」、「この『憎しみ』という根を抜き取りましょう」と、あなたに協力を求めてきます。
そのときあなたは告白して、キリストに許可を出すのです。「わかりました。私の中にそんな部分があったことを素直に認めます。どうか取り除いて下さい」
また、キリストは、「良い種をまきたいので、聖書の御言葉を心に蓄えなさい」「日光と雨が心に注がれるために、祈りの時間を持ちなさい」と、あなたに必要な行動を教えます。
あなたは「分かりました。自分ではできないですが、あなたが一緒に手伝ってくれると信じるので、やってみます」と応えます。
そのような、キリストとのコミュニケーションの積み重ねが、あなたの心の開拓につながります。
2010年6月21日
霊の救い ~一瞬で完成する救い~
あなたの霊は、キリストを信じた瞬間、キリストの命を得ます。キリスト自身があなたの内に宿るのです。
イエスは今、天で父の右の座についていると同時に、信じる者たち一人ひとりの内に宿っています。
キリストの命を得た霊は完全で、神と同じ性質を持ちます。これが霊の「救い」です。
生まれつき切断されていた電源コードが修復され、天からキリストの命という電流があなたの中に流れ、霊という豆電球の機能が回復するのです。
これまで、あなたの心は荒れ果てた土地になっていました。けれども今、最高の管理人であるキリストが登場しました。
この管理人はオーナーでもあり、この土地は彼の所有地になったのです。
人はみな、心の奥底にむなしさを抱えています。霊が空っぽだからです。
どんなに裕福になっても、どんなに有名になっても、どんなに宗教に励んでも、どんなに善行を積んでも、どんなに知識を増やしても、どんなに快楽にふけっても、この空白は満たされません。
この空白を満たせるのはイエスだけです。そのように初めからデザインされているのです。
2010年6月18日
福音(グッド・ニュース)
イエスは、初めから父なる神と共にいた「子なる神」です。父なる神と共に、天地のすべてを、そして私たち人間を、造りました。(コロサイ1・15-17)
聖書によると、そのイエスが今から約2000年前、聖霊によって処女マリヤの胎に宿り、完全な人間として地上に来ました(ヨハネ1・14)。
イエスは人となって地上で生きて、十字架について死にました。イエス自身に罪はありませんでしたが、全人類の罪を負って、身代わりとなって罰を受け、死に、葬られたのです。
しかし、それだけでは終わりません。イエスは、三日目に文字通りよみがえりました(Ⅰコリント15・3-5)。
私たちを救うため、自らを犠牲にしてくれた神の愛です。
2010年6月17日
死と命
霊・魂・体は、非常に良いものですが、しかし問題が起きました。
罪の結果、死がもたらされたのです。
エデンの園で、神はアダムに命じました。
神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・16-17)
アダムとエバは、この命令が守れず、罪を犯しました。
ところが、「必ず死ぬ」と言われたのに、知識の木の実を食べた後も、急には死んでいないように見えます。
しかし実際のところ、彼らは確かに死にました。
神からの「命」を失ったのです。
彼らの霊は神とのつながりを失いました。
霊的な死です。
2010年6月16日
体 ~世の意識を持つ領域~
体とは、生物学的・医学的な意味での私たちです。
肉眼で見えるあなたです。
アダムの体は土のちり(清潔な地上の成分)を集めて作られました(創世記2・7)。
たしかに人間の体を構成する元素を調べると、カルシウム、炭素、カリウム、マグネシウム、酵素など、すべて土に含まれているものと同じです。
体は神の作品として、本来は最高の機能を持っています。
アダムとエバの肉体は、もともとは不老不死で、永遠に保たれるべきものでした(創世記3・22)。
ただし、残念ながら、現在の私たちは、永遠の体を持っていません。
その昔、アダムが神の命令に逆らって罪を犯したので、罪の影響下に置かれた私たちの体は、もはや神がデザインした本来の「霊に属する体」ではありません。
現在の私たちの体は、老いて「死ぬべき体」(ローマ6・12、8・11)です。
これは「血肉の体」とも呼ばれます。
2010年6月15日
魂 ~自分の意識を持つ領域~
魂とは、肉体の内側に宿るその人自身です。
通常、世の中の人たちが「心」と呼ぶのがこれです。
喜んだり悲しんだりするあなたという存在は、単純に言えば、肉体という乗り物に入っているあなたの魂のことです。
知性、意志、感情は、すべて魂の活動です。喜怒哀楽は、魂の活動です。
あなたが何かを「思う」のは、あなたの魂が動いている、ということです。
霊は神から出てきたものですが、魂は神によって作られた「あなた自身」です。
わたし(神)はいつまでも争わず、
いつも怒ってはいない。
わたしから出る霊と、
わたしが造ったたましいが衰え果てるから。 (イザヤ57・16)
2010年6月14日
霊 ~神の意識を持つ領域~
霊は、人間の心の一番深いところに存在します。
霊はもともと神から来ているもので、神に属する領域です。
そもそも神ご自身が霊なる存在です(ヨハネ4・24)。
神は最初の人アダムを作ったとき、土地のちりでつくり、そこに命の息を吹き込みました。
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2・7)
ここで「息」と訳されている単語は、「霊」と同じ原語「ルァハ」です。
ルァハは、霊、息、風(強い風)などの意味があります。
アダムの中に神からの霊が入ったのです。
2010年6月11日
ある人の運転している車が、急に調子が悪くなりました。
彼は動揺もせず、車を路肩に止めて、淡々とボンネットを開け、持っていた工具で幾つかの箇所をいじりました。ボンネットを閉じて、運転を再開すると、車は快適に走り出しました。
彼は整備士だったのです。
ある人の使っているパソコンが、急にトラブルで画面が固まってしまいました。
彼は落ち着いてパソコンを再起動させて、必要な手順で修復作業を行いました。そしてバックアップしてあったデータを無事に取り出し、仕事を続けました。
彼はシステムエンジニアだったのです。
どんな機械でも、その構造を理解していれば、正しく扱い、修理し、最高の能力を引き出せます。
だとしたら、もしあなたが「人間」の構造を知り、正しく扱うことができれば、人生の様々な問題や傷を処理して、最高の人生を実現できるはずです。
2010年6月 8日
⑦幻は、絶えない
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。(使徒18・9)
聖書によると、パウロはコリントの町で、じつは恐れおののきながら宣教を続けていました(Ⅰコリント2・3)。勇猛果敢というわけでもなかったのは意外です。
しかし主は幻によって彼と出会い、与えられた使命を続けるように、と励ましました。
神は私たちを励ますため幻を与え続けます。
私たちに与えられた使命と才能は変わることがありません。それを握って、神の計画を実現するようにと神は願っています。
神の召命と賜物とは変わることがありません。(ローマ11・29)
2010年6月 7日
⑥幻は、神の国を広める
ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(使徒16・9-10)
パウロは幻を通して、マケドニヤで福音を伝えることが神からの招きだと悟りました。
神の与える幻は、私たちが神の国を伝える相手、場所、領域を教えます。
あなたの幻の実現が、そのまま神の栄光となり、イエスの力や名が広まるために用いられていくのです。
私たちが幻を握って送り出される先は、日曜日の教会堂ではありません。
集まって礼拝を捧げることは、神の国の中心ですが、最前線ではありません。
私たちが遣わされる最前線とは、生活の現場です。
2010年6月 4日
⑤幻は、出会いを通して明確になる
ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。(使徒10・17)
ペテロは主から不思議な幻を見せられましたが、その意味が解けまんでした。
しかしコルネリオと出会い、説明を聞くうちに、幻の意味を悟り、ついに異邦人への福音伝道が始まりました(使徒10・34-35)。
神からの幻は、すぐに鮮明に理解できるとは限りません。抽象的なものや、部分的なものなどが、時間をかけて少しずつ補強され具体的になっていきます。
そのために神が用いるもっともポピュラーな方法は、「出会い」です。
自分でも良く分からない情熱や喜びや、関心事の中に、神が与えようとしている幻が隠れている可能性があります。
それらは人々と出会い、交わるなかで、少しずつ明確になっていきます。
2010年6月 3日
④礼拝者は、特別な幻を見る
ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。(使徒10・3)
イタリヤ隊の百人隊長コルネリオは敬虔な人で、家族と共に神を恐れる人でした。
神は彼の「祈りと施し」(使徒10・4)を覚えていました。「祈り」は神への正しい態度の象徴、「施し」は人々への正しい態度の象徴です。
つまり彼は、神にも人にも、誠実な対応をしていたのです。
それゆえ神は異邦人伝道のきっかけとなる特別な幻をコルネリオに与え、ペテロを招くように指示しました。 神は私たちの心や態度を日々見ています。
そして御心にそって神を求める礼拝者には、特別な使命を帯びた幻を与えます。
2010年6月 2日
③幻は、他の人の幻と関連している
彼(パウロ)は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。(使徒9・12) アナニヤがサウロ(パウロ)について幻で示された一方で、サウロ(パウロ)自身にもアナニヤについての幻が示されていました。
神が人に与える幻は、神の計画の一部であり、他の誰かの幻とどこかで関連しています。
あなたの夢は、あなただけで孤独に完結しません。
ときには大きなビジョンの中に小さなビジョンが詰まっています。
ヨシュアは約束の地全部を占領するというビジョンを持っていました(ヨシュア1・2-4)。カレブはその中でヘブロンの山地を治めるビジョンを持っていました(ヨシュア14・12-13)。
どちらも繋がっています。
2010年6月 1日
②幻の中にイエスを見出す
さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。(使徒9・10)
ダマスコのアナニヤは、幻の中で主イエスと会い、サウロ(後の使徒パウロ)のもとに行き、手を置いて祈るように命じられました。
ここで学ぶ原則は、神が与える幻は、直接的に、もしくは間接的に、その中にイエスを見出すことができる、ということです。
庭付き一戸建て、新しい営業先の開拓、孤児院の建設、数年ぶりに娘と食事に行く...。どれも素晴らしい幻です。
けれども、その幻の中に、イエス・キリストの存在感があるでしょうか。
幻を通して、キリストと出会っているでしょうか。
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