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以下はカテゴリーもしくは月別「2010年5月」で絞り込んだリストです。
2010年5月31日
主は私に答えて言われた。
幻を板の上に書いて確認せよ。
これを読む者が急使として走るために。
(ハバクク2・2)
聖書では、しばしば神が人々に幻(まぼろし=ビジョン)を与える場面があります。
幻とは「神が与える、神の計画や人々の将来についての啓示」です。
神はもちろん現代の私たちにも幻を与えます。
私たちが神の国の住人として、価値ある目標へ全力疾走できるためです。 様々な出来事が起こる慌しい人生の中でも、揺るがされることなくまっすぐ進めるように、「走りながらでも読めるように」(ハバクク2・2新共同訳)、幻をあなたの心の板に書き記しましょう。
新約聖書『使徒の働き』では神が人々に幻(ビジョン)を与える場面が7回登場します。
それぞれの内容や状況は、神からの幻の原則を部分的に現しています。
7つを全部調べると、そこに原則の全体像が見出せます。
2010年5月27日
神の家族
神の国のチームについて、多く学んできましたが、最後に、もっともシンプルで本質的な定義を紹介します。
教会は、家族です。
「家族のようなもの」ではなく「家族」です。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ2・19)
ときに私たちは、聖書を読んでいて、微妙な誤解をします。天の神を「父のような方」だと思ってしまうことです。
それは間違いです。
父のような方ではなく、「父」です。
2010年5月26日
3種類の教会
聖書には数多くの教会が登場します。
地域にある教会もあれば、霊的な意味で語られる教会もあります。今でも世界中に、さまざまな教会があります。
けれども、聖書が語る教会の概念を純粋に当てはめていくとき、すべての教会は大枠で3つに区別できます。
①普遍的な教会(ユニバーサルチャーチ)...マタイ16・13-19、エペソ3・15
過去・現在・未来の、キリストの弟子たちは、神の家族として一つです。
すでに地上から去って天国にいる人々、そして地上にまだ残っている人々、両方を合わせてひとつの教会です。キリストが再び戻ってくるとき(千年王国のはじまるとき)、天にいる聖徒たちも復活して地上に帰ってきます(Ⅰテサロニケ3・13)。
この、過去・現在・未来を通じてたったひとつの教会を、通称、普遍的な教会(ユニバーサルチャーチ)と呼びます。
2010年5月25日
天と地をつなぐ権威
神の国のチームは、天と地をつなげる権威を持っています。
十字架から復活したイエスは、天と地のすべての権威を父から受け取りました(ピリピ2・9、エペソ1・20-21、マタイ28・18)。
そしてイエスは、弟子たちを全世界に遣わしました。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20・21)
ですから、キリストの弟子たちは、天の権威を託されています(エペソ1・22)。
この権威は、天の御国の鍵、とも呼ばれています。イエスはこれを「つなぐ・解く(禁じる・赦す)」という表現で説明しました(マタイ16・19、18・18)。
当時、この「つなぐ・解く」という表現は、学者や祭司が使いました。
2010年5月20日
3つの役割
世界にはたくさんの教会があります。
貧しい国の路上で死んでいく人々をケアする教会、
首長たちと組んで街の変革に取り組む教会、
秘密警察に追われながら聖書を運ぶ教会、
夫婦カウンセリグや子育てセミナーを行う教会、
フルオーケストラバンドで礼拝する教会、
宣教師を世界中に送る教会、
24時間ひたすら祈り続ける教会
どれも教会です。
教会は、別名「キリストの体」といいます。チームの「頭」がキリストだからです。(エペソ1・22-23)。
その活動は、シンプルに分ければ、3つの枠に括られます。
2010年5月19日
3つの完成形 神の国のチームの完成形は、三位一体の神(父・子・聖霊)のそれぞれの視点から見ることができます。
①父なる神から見ると...成長を遂げた子供たちです。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです(エペソ1・5)
この御言葉で「子」と訳されている言葉は、「成熟した子」という意味で、父の仕事を受け継ぐ後継者のことです。
チームの完成形とは、神の計画・目的を知って、それを実行する人々の集まりとなることです。
自己実現ではなく神実現に生きて、世界を変えて行く、キリストの弟子たちです。
彼らは神の子の確信と誇りに満ち、試練や困難を乗り越えて、神の恵みによって勝利を収める「勝利者」たちです。
神の仕事を受け継ぎ、それを行うことが人にできるのでしょうか?
できます。
そのお手本が、まず最初に勝利者となって父なる神の権威を託されたイエス・キリストです。
キリストは神の家族の長男で、私たちはそれを真似する弟・妹たちです(ローマ8・29、Ⅰペテロ2・21)。
2010年5月18日
神の最高傑作
サッカーの世界では、クラブチームが有名な選手にオファーするためには、莫大な移籍金が必要です。
神の国のチームも、メンバーを集めるために移籍金が支払われました。
その移籍金は、一流サッカー選手どころの比ではありません。
イエス自身の血(命)が、その移籍金です。
罪に支配されていた人々を贖う(あがなう=買い戻す)ため、イエスは十字架で命を捧げました。
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです(Ⅰペテロ1・18-19)
イエスの十字架は、個人個人を救うためでもあり、同時にチーム全体を買い取るためでもあったのです。
2010年5月17日
ところで、世に潜む強力な敵のひとつは、宗教です。 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。(コロサイ2・20-21)
宗教は崇高で、世俗とは対極にある、と考える人がいます。しかし宗教的な生き方も、この世の生き方の一つです。
世俗的と宗教的は、じつは表裏一体です。
ある家に兄弟がいました。
弟はルールからはみ出した不良タイプで、親のお金を奪って逃走します。 兄はルールばかり気にする優等生タイプで、外見だけ良い子ぶって、心の壁を建てます。
両極端ですが、根っこの問題は同じで、親との関係がうまくいかない機能不全です。
たまたま行動パターンが右か左かに分かれるだけです。
聖書にもこのような家庭が登場します(ルカ15・11-32)。
2010年5月14日
グーグルやスターバックスよりもはるか昔、イエス・キリストはすでにミッション・ステイツメントを掲げていました。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません(マタイ16・18)
イエスにとって、教会を建て上げることはミッションでした。
「岩」とは聖書では神の確かさ・堅固さの象徴で、ここではイエス自身のことです。
教会はよく誤解されます。
建物?
大統領選挙の票田?
ボランティア団体?
宗教団体?
世界遺産?
どれも違います。
「教会とは何か」を本当に知っている人は、ごくわずかです。
けれども、もしそれを正しく知って、イエスの計画に参加する人は、神から特別な恵みを受けます。
これこそ、奥義です。
2010年5月12日
⑦御座への招き(マルコ16・19、使徒1・9)~統治者として主の栄光を示す~
復活後のイエスは、弟子たちと40日を過ごした後、弟子たちの目の前で天に上がり、神の右の座に着きました。
神によって統治者としての正統な位置に招かれ、栄光を受けたのです。
勝利者として歩み、最後まで走り抜いた人々が最後に得る招きとは、地上での人生を終えて、天の栄光の座へと導かれる招きです。
天では勝利者としての栄冠と、天に積まれたあなたの宝と、そして「良くやった。忠実なしもべだ」とねぎらって下さる主イエスが待っています。
地上でのどんな富も比較対象にすらなりません。 ただしこの7番目のステップで天に上がって栄光を受けるのは、人生の最後を迎えるときだけです。
もし地上でさらに用いられる場合は、この段階を象徴するような霊的権威のアップグレードへと招かれます。
会社での昇進や、霊的ミニストリーの刷新など、あなたの人生で明確な統治権が確立し、神の栄光が現されることがこのステップとなります。
2010年5月11日
⑥豊かな命への招き(ヨハネ12・24)~死と葬りと復活~
3年半にわたってイスラエル全土で御業を行った主は、エルサレムでそのまま王となることもできました。群衆も(少なくともある時期は)それを望みました。
しかし世の考える勝利と神の考える勝利は違います。
イエスは絶頂期に十字架につき、死にました。
神の御心に叶った価値ある働きを充分に行った次に、聖霊はなんとすべてを手放して死ぬように招いたのです。
しかしその命令に従って、死んで、葬られた後に、主イエスは天地の全権威を持った王として復活しました。
3年半の活躍だけでも、歴史上の王の一人として名は残せたかもしれません。
しかし死・葬り・復活を通ったので、キリストは永遠に王の王、主の主として神の国を収めるのです。そして私たちの救いがもたらされたのです。
これが豊かな命への招きです。
2010年5月10日
⑤証明された働きへの招き(ルカ4・14-19)~神が備えた活躍の場へ~
荒野を終えた主は、宣教を開始し、3年半にわたり神の国を伝えました。
そこでは神の御業が起き、福音が語られ、人々が神に立ち返りました。言葉と力によって、イエスが天から遣わされた方だということが人々に対して証明されていきました。
神によって整えられた器が、その実力を発揮して実証していくとき、それが「証明された働きへの招き」です。
しかしイエスの地上での活躍を見るとき、その働きは、意外にも限定的なものです。
3年半という期間、イスラエルという空間、特に12弟子に特化された弟子育成、などです。
キリストは、父なる神に命じられた小さな働きに忠実だったので、世界を変える価値ある実を残したのです。
2010年5月 7日
④誘惑からの勝利への招き(ルカ4・1-2)~荒野での試練~
奇妙なことに、聖霊の力に満ちたイエスはまず、宣教ではなく荒野へと導かれました。
これは聖霊が導いたことです(ルカ4・1)。
荒野とは、自分の力が一切通じない場です。何も頼りにするものがない場です。
しかし聖霊はそのようの場に主を招き、主をさまざまな誘惑との葛藤にさらしました。
誘惑とは、神の方法から外れて自分の方法で幸せを得るようにと迫る力です。神が与えた「霊」ではなく人のわがままな「肉」で反応するように差し向ける惑わしです(ガラテヤ5・16-21)。
主は40日間の断食の最後に訪れたサタンの誘惑に対し、御言葉を用いて完全な勝利を収めました。
多くの信仰者は聖霊の力に満たされたことに満足し、すぐにミニストリー団体を立ち上げたり、影響力のある活躍の場を求めたり、神の「教会」なのに世の「業界」と同じ方法で目的を達しようと躍起になります。
しかし聖霊の招きは、そうではないのです。
2010年5月 6日
③油注がれた祭司への招き(ルカ3・21-22)~聖霊の力を受け取る~
イエスが次に姿を現すのは、バプテスマのヨハネのもとで洗礼を受けるときです。このとき聖霊は鳩のようにイエスに下りました。
主が洗礼を受けた年齢(30歳)は、イスラエルでは祭司が任命されて油を注がれる年齢です。
油注ぎとは、神の聖なる奉仕に就くため世から分けられ、聖められることを意味します(これを聖別といいます)。
主が聖霊を受けたのは、霊的な油注ぎであって、公式に神の国を伝えるミニストリーを開始するための力を得たということです。
30歳になって聖霊を受けるまで、イエスは何もしるしや奇跡を行っていません。
イエスは天から下ってきた神の御子でしたが、一方で、地上では人間として訪れたのです(ただし、私たちと違って、罪なき完全な人です)。
私たちの人生の模範である主は、聖霊の力を受けることで、霊的な祭司職へと招かれたのです。
2010年5月 5日
②二重の責任への招き(ルカ2・49-52)~神が与えるくびきを負う~
少年時代(12歳)のイエスはあるとき、エルサレムの神殿に残り、教師たち(律法学者たち)の前に知恵を披露していました。
捜しに来た母マリヤに対し、イエスは言います。「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」(ルカ2・49)。
別訳では「わたしが父の仕事をしているのを知らなかったのですか」という意味です。
天の父なる神のもとに留まり、その仕事(御心・計画)を行うことはイエスの責任です。
しかし地上の両親が迎えに来たとき、イエスは逆らわず一緒に「ナザレに帰って、両親に仕えた」(ルカ2・51)のです。
地上の親への責任もイエスはおろそかにしません。
イエスは双方への責任を果たしながら、「神と人とに愛され」(ルカ2・52)ながら成長しました。両方との正しい関係を持っていたのです。
2010年5月 4日
神の国にも出世コースがあることをご存じですか?
会社で社長の椅子を狙うことではありません。政界で権力を得ることでもありません。それらも悪くありませんが、もっと価値あることがあります。
イエスを信じる弟子たちにとって、個人的なビジョン(目指すべき最終形)とは、キリストに似た者(Ⅱコリント3・18、ローマ8・29)となることです。
これは別の角度から見ると、神の国の価値観に従った勝利を収める者になる、ということです。
勝利者とは神の国の赤ん坊ではなく、成熟した跡取り息子・娘であり、王イエスと共に天と地を治める者たちです(エペソ1・10-11)。
このコンセプトを知らないままの信仰の人生は、ゴールの分からないマラソンレースに出場するようなものです。
それでは迷走の果てに、疲れ果て、倒れこんでしまうでしょう。
2010年5月 3日
まとめ
長い年月にわたる決断へのプロセスを踏み、ついに主の宮は完成しました。
ソロモンが宮で神に向かって、長い祈りを捧げると、神の栄光が現れました。
ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。祭司たちは主の宮に入ることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(Ⅱ歴代7・1-2)
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