spacer
HomeTop Page  Home律法時代②
2010年3月 8日
 

主を恐れる

 道徳的御心(義の御心)を知ることは、正しく神を恐れることにつながります。

 神を恐れる、という表現にあなたは違和感を持つかもしれません。なぜならあなたはすでに創造的御心を知り、神は愛と恵みにみちた優しい方だと知っているからです。

 もちろんそのとおりです。無意味に臆病に神を恐れることはありません。

 しかし神の御言葉の確かさを悟るなら、神が侮ってはいけない方であり、神の定めた道を歩むことの大切さ、その道から外れたときの悲惨さを悟るでしょう。

 聖なる神の崇高さに畏敬の念を持つこと、それが正しく神を恐れることです。聖書は、その思いこそが、知恵の初めだと言っています。

 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9・10)


 律法時代のヒーロー、ダビデ王は、王となる以前、前王サウルから命を狙われ続けましたが、あえて反撃せず、復讐の機会を二度とも放棄しました(Ⅰサムエル24章、26章)。

 問題のあるサウル王でも、神が選び定めた王なので、手出ししなかったのです。サウル王を恐れたのではなく、神の定めた真理を尊び、畏敬の念、神を恐れる心を抱いたのです。

 人は神の偉大さ、恵み深さを知るからこそ、本気で神を恐れることができるのです。


 右か? 左か?

 幸せな人生を送るための真理は、すべて聖書に書いてあります。必要なのは、人生のあらゆる場面で、正しく主を恐れ、聖書の御言葉の真理を適用していくことです。

 ときに私たちは、二者選択の場面で、どちらが神の御心だろうか、と迷います。

 「夏休みはバイトするべきか? キャンプに行くべきか?」

 「転勤希望先は大阪にするべきか? 札幌にするべきか?」

 「今日の夕飯は魚か?肉か?」

 たしかに、それらの選択が人生の重要な分岐点となることもありえます。しかし多くの場合、まず聖書の御言葉にそった生き方ができているかをチェックすることが先決です。

 聖書の御言葉、つまり道徳的御心にかなった生き方ができていないなら、右に行っても左に行っても、待ち受けている試練は同じで、刈り取りが待っています。人間関係でいつも同じトラブルを起こす人は、右に行っても左に行っても、また同じトラブルを起こします。

 道徳的御心を悟るために神が与える経験は、どんな状況・環境でも普遍的です。学校でも職場でも家庭でも、日本でもアメリカでも、今も昔も同じです。

 言い換えれば、どんな状況でも、道徳的御心に従っていくなら、その人は一定の祝福・繁栄を得ます。

 律法は、聖書の御言葉の真理自体から右にも左にもそれてはいけない、と警告しています。

 あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに行いなさい。右にも左にもそれてはならない(申命記5・32)

 しかし、そこを正しく抑えていれば、人生の選択自体は右に行っても左に行っても神の祝福を得ることができます。

 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く(イザヤ30・21)
 
 私たちの人生は自由であり、どんな選択をしても、神の定めた正しい生き方をするなら祝福があります。

 ときには油注がれた預言者があなたの人生のための個人的な啓示を与えるかもしれません。預言は、よく吟味しながら正しく役立てるなら効果的です(Ⅰテサロ5・20)。

 しかし預言の扱いは神の第三の御心に関わる領域です(詳しくは後述)。まず聖書の御言葉を正しく解釈し適用することが優先です。

 もし特定の預言者の言葉が聖書に書かれた御言葉以上にあなたの人生の土台となるなら、一歩間違えると占いと同じです。今日のラッキーカラーはピンク、という文句と大して変わりません。

 預言を吟味するにも、まず聖書の御言葉を知らなければ吟味できません。聖書の御言葉から学び、神の国の原則を適用して下さい。

Copyright© 2011 Bungo Kubota All rights reserved.